30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

12/16 検診

放射線終了から115日目。

今日は九州がんセンターでの定期健診だった。

今回からはMRIではなくて、上半身全体が見れるようにCTにしてもらっている。幸いにも上半身には転移は見られていなかった。また、嗅神経芽細胞腫自体も引き続き縮小傾向にあるようだ。

リンパ郭清の手術痕は放射線を当てているので、いまいち予後が良くない。地道にリハビリを続けていくしかなさそうだ。血液検査の結果も特に問題なし。

また、鼻水の量が尋常でないので、その検査もしてもらったが、脳の髄液が漏れ出してるということではなさそう。先生の見解では、細胞が死滅する過程で何か反応が起きているのかもしれないとのことだ。髄液では無かったので取りあえずは一安心だが、原因がよく分からないので、それなりに不安ではある。日常生活にも支障を来しているし、復職後にも影響が出るだろう。何かしらの手だてを考えねば。

 

前進してるわけでもないけど、後退しているわけでもない。そんな毎日。

一応闘病記なので、病状もたまには書いておかねばね(笑)

離婚4(結婚前の心境)

元妻が病人の僕と結婚してくれたことには心から感謝をしている。

 

当時の日記を読み返すと、僕は元妻のことを「ギャンブラー」のようだと形容しているが、ギャンブラーは少なくとも自分が勝つと思っているものに賭けるのだから、正しくない表現だったかもしれない。

なぜなら、あの時点で僕の「人生の期待値」は確実にマイナスだったからだ。5割以上の確率で死に、仮に生き残っても高い確率で残りの人生は苦しいものになる。負けると分かって賭けるギャンブラーはいない。

正直なところ、「自己犠牲の精神に溢れた聖女」だと思っていたのだ。ただ、このような表現をするのが恥ずかしく、当時の日記では少しヒネた表現をしたのだろうと思う。 

 

元妻は、僕の母親に対して、結婚が決まると同時に僕が病気になってしまった状況に対して「自分がドラマの主人公になったみたいです」という話をしていたらしい。自分の置かれた状況に対する比喩でなく、多分本当にそう思っていたのだと思う。ただ、当時の正直な気持ちを述べるならば、その考え方は少し危険だと思った。

「世界の中心で愛を叫ぶ」「恋空」「余命1ヶ月の花嫁」など、闘病を題材とした映画・ドラマは枚挙に暇がない。そして例外なく闘病者は死ぬ。

逆説的ではあるが、この手の映画・ドラマの中でのハッピーエンドは「闘病者の死」でしか達成し得ない。「死」により全ての苦労は思い出として昇華され、残された主人公は想い人の遺志を継いで前向きに生きる…それでいいのだ。視聴者は、仮に生き残ったとしても、その後に待ち受けているドロドロとした苦労に気付いている。そんなもの見たくはないから、死んで終わりでいいのだ。一番「美しい」終わり方だ。

なお、「ドロドロとした苦労」は僕が現実世界で体現している通りだ(笑)

 

だから、元妻に僕が「死んだとき」の覚悟じゃなくて、「生き残ってしまったとき」の覚悟があるのかどうか、そちらのほうが不安だった。

とは言え、当時の僕は死ぬか生きるかの状態で、生き残ったらそれはそれで考えればいいという逃げに走ってしまった。何より絶望の中で「結婚」という希望に縋りたかった。お互いにもっと深く考えるべきだったかもしれない。 

  

 

12/8 障害年金について

放射線終了から107日目。

以前入院中に障害年金について少し書いた。


知り合いの社労士さんから紹介して頂いた、障害年金に詳しい社労士さんに連絡をとって相談をしてみた。結論を言えば、現状では受給は不可能。僕もある程度調べていて、無理だろうという予想はしていたので、まあ予想通りと言ったところだ。

がん患者が障害年金を受給するには、がんにより障害があると認識できる「客観的な証拠」が必要となる。例えば、血液検査の数値が極端に悪かったり、外見からして明らかに体の一部が欠損している状態でしか受給できないようだ。この条件では、正直ほとんどのがん患者は受給は不可能だろう。

他にも色々教えて頂いたが、鬱病障害年金を比較的受給しやすいらしい。鬱病の場合は、医者の診断という「客観的な証拠」があればいいようだ。「客観的な証拠」が「医者の主観」であるとは、がんと比べて基準が余りにも違いすぎる。誤解して欲しくないが、鬱病で受給している人を非難しているわけではない。

むしろ、がん患者が受給できるハードルが高すぎるのだ。がんに対する評価は昔のものを使っているものも多く、現状とマッチしていないとその社労士さんも言っていた。この状況もがん患者の就職と同じで、制度が整ってくるのを待つしかないのかもしれない。

 

しかし、余り想像したくはないが、僕だって数年後に状況が変わって貰えてしまう可能性だってあるのだ。僕は、意識する・しないに関わらず、人生で色々な布石を打ちながらここまでやってきたと思っている。その布石は僕が完全に人生から滑り落ちることを防いでくれている。

だから、今回こうやって行動を起こし、障害年金に詳しい社労士さんと繋がりができたことも、将来の布石としていつかは役に立つのかもしれない。もちろん役に立たないことが一番いいんだけどね(笑)

12/4 味覚の状態

放射線終了から103日目。

以前に少し味覚が戻ったという日記を書いたが、あれから味覚にはほとんど変化がない。味覚が戻ったら「放射線終了から〇〇日目」という表示を消そうかと思っているのだけど、まだまだ消すのは先になりそうだ。少なくとも年は越すだろう。

 

肝心な塩味・甘味の味覚が戻ってきていない。

塩味は、塩そのものを舐めた時しか感じることができず、食事に含まれる自然な塩分はほとんど感じることができない。その一方で、甘味は砂糖を舐めても全く味がせず、野菜などの自然な甘みしか感じることができない。逆だったらいいのに(笑)

もう放射線が終わって3ヵ月以上経つが、ここまで戻らないということは、もう味覚の打ち止めになってしまったのではあるまいか。味覚が治療以前の水準に戻ることはないのは理解している。医師によると8割程度は戻るという説明だったが、当然個人差があるだろうから、ここが自分の上限ではないのだろうかという恐怖がある。

同病の方も半年くらいかけて少しずつ戻っていったという話をされていたので、そのようなものなのかもしれない。しかし、ここ1ヵ月何の変化もないという事実は、僕を不安にさせるには十分だ。

 

味覚障害の他にも、手術の後遺症で顔面の右下が麻痺しているので、食べかすが口の右下に大量に溜まり、食事の度に指で掻き出さなくてはならないという問題もある。この作業の度に人間としての尊厳が失われたような気持ちになり、とても虚しくなる。今は食に対する楽しみは一切ない。生きるための作業だ。

食事がこんなにも苦痛なものだったとは。

Eat to live, not live to eat.

離婚3(現在の心境2)

小林麻央さんのブログに

「ごめんね。病気になっちゃった妻で」

という記述があった。

この気持ちは痛いほど分かる。僕もやはりこの感情に苛まれ、病気である僕と結婚させてしまった元妻に対する負い目が常にあった。なので正直に言うと、離婚により僕は「夫」という立場から解放されてホッとしている部分もある。

責任を放棄したと非難する向きもあるだろう。やはりそのように現実でも言う人がいて、その手の非難は甘んじて受けることにしている。ただ、以前のように働けない中、経済的な安定を図るのはやはり大変だったし、できるだけ健康そうに振る舞わなければならないという苦しみもあった。頑張る夫という役割を果たそうとした。でもどうしようもなく苦しいことも多かった。

 

僕のがん患者としての振舞いは100点だと思う。死にたくないと喚き散らしたこともない。金銭的に誰にも迷惑をかけず自分で全て完結させた。病気に対する愚痴により家庭を陰鬱にするということもなかったと思う。再発しても淡々と治療を受け、またしても誰にも迷惑をかけることはなかった。全て本当に淡々としていた。100点満点だ。

しかし、それは病人を基準とした評価軸であって、一般社会を評価軸とすると20点くらいまで下がる。上手く働けないし、働けてもパフォーマンスはかなり低い。収入も当然低い。時々体調が悪くなる。僕はしばらくは仕方のないことだと考えていた。

しかし、僕の元妻の評価軸は一般社会のほうだった。これは元妻を非難しているのではない。ただ二人の話し合いの場をきちんと持ちさえすればよかったのだ。もっとお互いの意見を率直に言えればよかったのだ。評価軸の擦り合わせをすればよかったのだ。この点において相手に配慮を求めるだけだった僕と元妻は両方とも悪い。

そして、元妻の要求水準は、僕が出せるものより少し高かった。僕は途中で疲れ果ててしまい、そして再発により全てが終わった。

 

しかし、離婚して悪いことばかりかと言えばそうでもない。まず、昔からの貧乏暮らしの影響で僕一人ではほとんど金を使わないので、経済的な安定が図れる。そして何よりも体調の悪いときでも、自分だけのために昼間からずっと横になっていられる。誰も気にする必要がない。誰も気にしなくてよいのは、寂しくもあり、楽でもある。

 

今の僕は間違いなく不幸だ。誰がどう見ても不幸だ。売れない脚本家が書くような典型的な不幸像だ。余りに典型的過ぎて自分でも笑ってしまうことがある。

「不幸話」とは当人が幸福な時に「昔は大変だった…」と述懐されるものだ。だから、僕はこの現在進行形の不幸を「将来の不幸話」にすべく、今からの人生を幸福なものにしなければならないと思っている。