30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

1/4 病院

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遅くなりましたが、新年おめでとうございます。
昨年の様々な苦痛を乗り越え、何とか新年を迎えられて嬉しく思います。
本年も宜しくお付き合い下さい。
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放射線終了から133日目。

今日は病院に行ってきた。とは言っても僕の病気関連ではない。時々日記にも登場している高校時代の友人(その1その2)が、福岡での帰省の際にアキレス腱を切って緊急入院したのだ。医者の不養生とはよく言ったものだ(笑)

ということでそのお見舞いで病院に行ってきたのだった。

入院先は偶然にも僕の実家から自転車で10分くらいの場所にあった。病院に入ると、とても不思議な感じがする。自分が見舞い客として病院に行くのは、いつ以来だろう。自分の父親がガンで入院していたとき以来だろうか。しかし、当時は感じていた病院に対する居心地の悪さを今は全く感じない。むしろ懐かしく、落ち着く感じすら覚える。僕は病院の雰囲気にすっかり慣れ切っているのだ。冷静に考えれば恐ろしいことだ。

 

幸いにも彼の容態は思ったよりも悪くなかった。忙しい中、それなりの期間の入院を強いられるのは気の毒そのものだが、正月くらいゆっくり休むようにとの思し召しだろう。そして、彼にとっては入院したのも悪いことばかりでもなかったようだ。医者である彼自身が患者として入院したことで、普段の医者の目線では見えないものが見えたらしく、色々顧みることがあったようだ。

彼は彼なりに大変な人生を送っている。傍から見れば順風満帆だろうが、僕は彼の苦労を全部知っているし、彼も僕の苦労を全部知っている。昔からの友人だから、お互いの情けない部分を良く知っている。社会人になってできた「友人」だと、中々こうはいかないから貴重な関係だ。

この年になると、新しい友人なんてまずできない。仕事の関係で仲良くなったって、それは自分の力で仲良くなったと本人が勘違いしているだけで、そのバックにある会社の看板とお互いお付き合いしているのだ。純粋な付き合いなどできようはずない。

友人なんて、昔からの気心が知れた2~3人くらいが残っていればいいのだ。何より人付き合いが苦手な僕の友人なのだから、僕にとっては本当に貴重な友人だ。

 

医者は自分が手術をするのは慣れっこなのだろうが、自分が手術をされるのは怖いと見える。患者としては僕のほうがベテランなので、散々恐怖感を煽っておいた(笑)悲しいかな僕はもう病院が当たり前の人生になっているのだ。

病院が当たり前でない存在になることを目標にして今年も頑張っていこう。

離婚5(結婚当日の心境)

そういえば、今日から丁度2年前に結婚届を出したのだった。

僕は病気が判明してから、一度結婚話をリセットしたほうがいいと思ったし、そうでなくても、籍をいれずに半年~1年程度様子を見たほうがいいと思っていた。元妻にも焦らずにしっかりと考えるように何回かお願いをした。しかし、元妻の気持ちは変わらず、そこまで覚悟してくれているならと本当に有難く思った。

  

当日は外出許可を貰い、元妻と病院に一番近い役所に結婚届を出しに行った。

2ヵ月前には離婚届を送り付けてきた彼女が、

2年前には段取りよく結婚届を準備していたのだ。

抗がん剤の副作用の影響で、外に出歩くことがすごく苦しかったことを覚えている。役所は長い階段の先にあった。階段を上るのは非常にきつかったが、上りながら、この階段を下りるときにはもう夫婦なんだなあ、としみじみしたことを思い返す。

 

帰りの足取りが軽く感じたのは、階段が下りだったからだけではないだろう。

空を見上げると12月には不釣り合いなほど青く澄んでいた。

淀んでいた世界に光が差したように思えた。

 

全てがもう遠い昔のことのように感じる。

12/16 検診

放射線終了から115日目。

今日は九州がんセンターでの定期健診だった。

今回からはMRIではなくて、上半身全体が見れるようにCTにしてもらっている。幸いにも上半身には転移は見られていなかった。また、嗅神経芽細胞腫自体も引き続き縮小傾向にあるようだ。

リンパ郭清の手術痕は放射線を当てているので、いまいち予後が良くない。地道にリハビリを続けていくしかなさそうだ。血液検査の結果も特に問題なし。

また、鼻水の量が尋常でないので、その検査もしてもらったが、脳の髄液が漏れ出してるということではなさそう。先生の見解では、細胞が死滅する過程で何か反応が起きているのかもしれないとのことだ。髄液では無かったので取りあえずは一安心だが、原因がよく分からないので、それなりに不安ではある。日常生活にも支障を来しているし、復職後にも影響が出るだろう。何かしらの手だてを考えねば。

 

前進してるわけでもないけど、後退しているわけでもない。そんな毎日。

一応闘病記なので、病状もたまには書いておかねばね(笑)

離婚4(結婚前の心境)

元妻が病人の僕と結婚してくれたことには心から感謝をしている。

 

当時の日記を読み返すと、僕は元妻のことを「ギャンブラー」のようだと形容しているが、ギャンブラーは少なくとも自分が勝つと思っているものに賭けるのだから、正しくない表現だったかもしれない。

なぜなら、あの時点で僕の「人生の期待値」は確実にマイナスだったからだ。5割以上の確率で死に、仮に生き残っても高い確率で残りの人生は苦しいものになる。負けると分かって賭けるギャンブラーはいない。

正直なところ、「自己犠牲の精神に溢れた聖女」だと思っていたのだ。ただ、このような表現をするのが恥ずかしく、当時の日記では少しヒネた表現をしたのだろうと思う。 

 

元妻は、僕の母親に対して、結婚が決まると同時に僕が病気になってしまった状況に対して「自分がドラマの主人公になったみたいです」という話をしていたらしい。自分の置かれた状況に対する比喩でなく、多分本当にそう思っていたのだと思う。ただ、当時の正直な気持ちを述べるならば、その考え方は少し危険だと思った。

「世界の中心で愛を叫ぶ」「恋空」「余命1ヶ月の花嫁」など、闘病を題材とした映画・ドラマは枚挙に暇がない。そして例外なく闘病者は死ぬ。

逆説的ではあるが、この手の映画・ドラマの中でのハッピーエンドは「闘病者の死」でしか達成し得ない。「死」により全ての苦労は思い出として昇華され、残された主人公は想い人の遺志を継いで前向きに生きる…それでいいのだ。視聴者は、仮に生き残ったとしても、その後に待ち受けているドロドロとした苦労に気付いている。そんなもの見たくはないから、死んで終わりでいいのだ。一番「美しい」終わり方だ。

なお、「ドロドロとした苦労」は僕が現実世界で体現している通りだ(笑)

 

だから、元妻に僕が「死んだとき」の覚悟じゃなくて、「生き残ってしまったとき」の覚悟があるのかどうか、そちらのほうが不安だった。

とは言え、当時の僕は死ぬか生きるかの状態で、生き残ったらそれはそれで考えればいいという逃げに走ってしまった。何より絶望の中で「結婚」という希望に縋りたかった。お互いにもっと深く考えるべきだったかもしれない。